時中学社紹介
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(この文章は台湾の時中学社ホームページからの紹介文章を抜粋意訳したものです。原文はこちら) 1949年冬、鄭曼青先生は当時の台北市長の游彌堅氏の依頼により、台北市中山堂で太極拳を教えることになった。その時に会の名前を「時中太極拳社」と定めた。時中とは古典の「中庸」から引用し命名されている。君子時中,不偏不倚,亦勉勵門人(君子は常に中庸を保ち、一方にかたよることが無く、また弟子達を励ます)。人の為に事を行う時は常に中道を行き、拳を練る時は常に中定を守る。これを学ぶ者は病を去り健康になり、社会へは福を、人々には恵みをもたらす。この様にして台湾における太極拳の大きな流れが始まった。 民国72年に鄭子太極拳研究班第一期が台北市仁愛国民小学校で始まった。しかし日増しに参加者が増え場所が狭くなったので、民国92年から五常国民中学に場所を移した。そして現在も台湾北部の鄭子太極拳の主要な団体となっている。 【時中学社】第一期社長は劉錫亨先生が就任した。その後劉先生は仏教修行の為退任され、民国76年から徐憶中先生が第二期社長に就任し現在に至る。 研究班第一期開設の経緯 時中学社は民国71年12月13日に台北市の自由の家で第2期(第6回目)の会議を開催した。鄭曼青先生の奥様や羅邦骼t兄、黄性賢師兄等も海外から参集された。会議では案件ごとのグループに分かれ、いかに鄭曼青先生の残された太極拳を正しく伝え、研究してさらに発展させるかについて何度も何度も話し合われた。 鄭曼青先生の太極拳を正しく残すには、何をおいても先生の太極拳を研究することが第一であることで意見が一致した。そして「鄭子太極拳研究班」の設立が決定し、同門の有志が集まり研究を深める組織が出来た。 当初は永和市にある鄭曼青先生のお住まいを研究の場所と想定した。しかし予定参加人数を20名とし期限を区切って募集したところ予想以上に参加希望者が集まり先生のお住まいでは開催が不可能となり急遽場所を探すことになった。その時に同門の邱秀雄(※)の奔走により、仁愛国民小学校の莊杏林校長から国民の体育発展へ協力したいとの快諾を得て同小学校に場所が決定した。 (※)日本鄭子太極拳研究学会を指導いただいている先生です。 研究班の教職員は長年経験を積んだ弟子から構成され、総教練、総幹事、および拳架、推手、学理、教務、総務等の組織に正副の組長を各1人設け、別に研究顧問および研究委員を各5名招聘することとした。各課程は理論と技術を無駄なく学べるよう編纂されており、受講したものに実際的な効果があるように作られた。 研究顧問−羅邦驕A黄性賢、郭琴舫、趙如琳、張齊賢 研究委員−鞠鴻賓、干嘯洲、陳紬藝、許振聲、李文海 社長−劉錫亨 總幹事−徐憶中 拳架組−陶炳祥、史浩池 推手組−劉錫亨、徐憶中 學理組−楊崇堅、梁 志 教務組−柯?攵華、沈伯賢 總務組−王昌麟、唐鴻聲 |