恩師の思い出

(この文書は鄭子太極拳研究會副理事長の阮偉明先生が時中学社ホームページ上に発表された文書を意訳させて頂いたものです。つたない翻訳であることをご了承ください。また誤訳などありましたらご指摘ください。時中学社のページには劉錫亨先生の写真が多数掲載されていますので、是非御覧ください)

 恩師の劉錫亨先生は民国98年(2009年)4月8日に我々の元を離れました。(お亡くなりになりました。)
 それは師爺の鄭曼青先生より20年も多く活躍されたのでした。
先生の他界は、師母(鄭先生の奥様)、同道(太極拳の仲間)、学生(弟子達)に深い悲しみと喪失感をもたらしました。
 その時の恩師が去った悲しみは、今に至っても私達に同じように迫ってきます。
 ご縁があって私にこの追悼文を書かせていただくことになりましたが、私はこの機会に多くの方々に劉先生を知っていただきたく書かせていただきます。
 これからの文章はできるだけ先生の言われたことを正確に回想し記述したいと思います。

 民国71年(1982年)に私はアメリカから台湾に戻りました。羅邦禎先生の紹介で劉先生のもとで太極拳の学習を再開しました。
 毎朝早くに先生の家で教えていただきました。これは私の最も思い出深く懐かしい光景です。そこは台北市臨沂街の中で、大きな赤い門を入ってゆくと、日本家屋が有り、食料局配給担当の先生の宿舎なのでした。広さは百坪ほどあり、その中庭では十数名が練習できるほどでした。
私は太極拳を教えていただくために、この場所へ何回も何回も通いました。
 私は早朝の班に参加していました、約3時間の内容は、先生と一緒に拳を行います、一連の先生特有の基本動作を行い、その後先生は私達の間に入り推手を1人1人に教えてられました。そしてその合間合間に、拳理や逸話をお話ししてくださいました。
 先生は朝、お茶を学生のために用意してくださりましたが、先生はそれをほとんど飲むことが無く、先生は一番練習されほとんど休息を取られませんでした。
 中庭にはたくさんの花と果樹が育っていて、先生はしばしジャスミンの香りをかいだりされていました。そして枇杷やバナナが実をつけていて私達はそれらを取って美味しくいただきました。
 練習をしている最中に、先生の孫娘さんが我々を見つけると慌ただしくやってきて、私達にいたずらをしようとします。突然の来客の訪問に、大半が熱心に拳を追求する人達でしたが、和やかな愉快な気に包まれるのでした。

 先生は推手をする時にずっと微笑んでおられ、それは子供が遊びに夢中になっている姿を彷彿とさせました。
 童心。私は先生の真の本質はここにあると思います。私達はこの様な環境の中で太極拳を学ばせていただきました。
 残念なことに私がここに通えたのはたった6年間でした、その後この建物は改築のため取り壊されてしまいます。
 思い出の中で私が最も惜しく想うのは、私達が推手の練習をした車庫の壁です。
 壁は学生の汗でびっしょりとなり、先生はレンガの破片を用いてそこに字を書きました。
 その後、私達の練習環境はいろいろ変化しました、公園や学校を利用したこともあります。
 皆の学ぼうとする気は変わりがありませんでしたが、それを包む空間の気はもうこんなには感動させることはありませんでした。
 劉先生が弟子を取る唯一の条件は「恭敬心(敬いの心)」があるかどうかでした、先生はただ好奇心で観に来る人や試しに来る人を歓迎はしませんでした。
 ただ誠心(まごころ)があればそれだけで良かったのです、素質は重要な事ではありません、費用も個人の負担能力に従って任せていました。 この誠心(まごころ)はまことに相対的で、劉先生も学生に対して同じだけの誠意を払っていました。
 先生はひとつの信念をお持ちでした「ただ学生は誠心で学び、先生は誠心で教える。それにより功夫が芽を出し発展できる。」 往々にして、私達学生は私達の誠心が先生の我々に対する誠意に遠く及ばないと感じます。
 一旦、先生の学生となったら、拜師するしないに関わらず、先生は皆を同一視し、別け隔てなく接して教えていただきました。 そして必ずご自身で指導され、たとえ初心者であっても先輩の学生に任せずご自身で指導されました。
 教えは全て教室の中で教えられ、密かに教えるという事は無く、また授業料の過多にも関係なく教えていただきました。 その先生の献身的な教えがあるからこそ、学生同志は合い和し、お互いを尊重しました。
 これらの先生とともに拳を学ぶ中で、印象深い事はいろいろありました。 先生のもとには世界各地から学生がその教えを求めてやって来ました。あるものは数週間、あるものは数ヶ月、そして台湾で仕事を見つけ住み着き、甚だしきは結婚し子供をもうけ、台湾に根を張る者までいました。
 多分文化の違いと思いますが、彼らはことのほかこの様な師弟関係に憧れを持っていたようで、先生もまた父の様な感情を持った様です。
 1人の学生は先生に拜師し義父になっていただきました。彼は最も早い時期の学生で現在はアメリカに住んでいます。彼は長年に渡り訪台し、返事のあるないに関わらず定期的に先生に手紙を書き、先生を心配しています。
 先生の唯一の外国人女性の弟子の方琳は、情報も無く言葉も通じないのに中国大陸に渡り、その情熱をもってとうとう先生の故郷と親戚を見つけ出しました。先生は非常に感銘を受け、その後彼女が音信不通になった後も、先生は彼女の行方を探し続けました。
 先生のこれらの誠心を重視することは、あきらかに鄭曼青先生への忠誠から来ています。
 先生の鄭曼青先生に従った時間は誰よりも長く、民国38年に鄭曼青先生の教室に入った以後、中断することなく従っています。
 鄭曼青先生は過去、台湾で3回、剣を教えていますが。先生は唯一全てに参加している学生でした。
 人となりが正直で、事にあたって真面目で、公私の別け隔てが無いため、鄭曼青先生から深く信任されました。
 先生は学生の時から頭角を現し、帳簿の管理を任され、スケジュール管理を行い、会の前面に立ち、学生達に拳架を教えました。
 先生は常々、鄭曼青先生から話していただいた荘子の逸話を引用します。「夫子?亦?,夫子趨亦趨」(先生が歩けば共に歩き、先生が走れば共に走る)、これは先生と学生のあるべき姿を表しています。
 先生の鄭曼青先生に対する忠誠心には一点の疑いもありませんでした。先生は言われます、「信念は宗教に似ています。真の誠から信念が生まれ、信念は何事をも成し遂げます。」

 先生は表面的には弟子を取らず、太極拳に関する文章も発表せず、武術の世界に関わろうともしませんでした。
 太極拳に対しては、それを広める事に熱心ではなく、少数の縁のある学生にのみ熱心に教えていました。そのため追随する者がおらず、大した評価もされていません。時中学社の社長を退いてからは、一部の少数を教えるか、たまに行う時中学社での講演を除いては、外界との接触はほとんどありませんでした。
 先生の関心は拳芸の本質であり、拳を追求することが全てにおいて優先されたのです。
 太極拳は劉先生にとって、一種の修養の道であり、生活の指針であり、武術的側面は末節なことでありました。そのため先生は大師と呼ばれることを好まず、それは先生の理念とは異なるからでした。
 この態度が最も現れるのが推手の観念においてでした。先生は推手を学ぶことは人との道理を学ぶ事であり、また他人との良好な相互関係を作ることだと認識していました。
 先生は推手の時に私達によく言われました、心を静めることに専念すると体の動静が察せられ、功夫が進歩し、落空へ譲ることが出来、また發勁ができる。陰で譲ることが必要であり、これをもって平心静気の功夫が養える、そして修心養性が進む。
 忍んで譲る事は最高の原則です、力に頼るのは不当で、相手を操作しようとしないでください。
 ただただ自らに解決することを求めます。先生の名言があります。「要讓人家打不到,不要讓人家打不動」(譲る人には相手の拳が当たらず、相手が動かなければ譲る必要は無い。)
 先生は推手の時に正確に守る原則がありました。毎回、全てにおいて化してから打つ、全てが化されてからようやく打つ、打つ時も軽々と推す、すると相手は平衡を失う。
 先生は学生が力を用いる時、あるいは学生が離れた時に、特別に重く打ちます。その時、学生は大きな打の衝撃を受け、私達は先生の發勁の威力の大きさに感服します。
 羅邦禎先生は年を取られてからは推手をしなくなりましたが、劉先生は年を取られても推手をされてました、ただ鬆化を求め、人を打つ事は無くなりました。

 この様な練拳の精神と姿勢は、私は劉先生が純度の高い極めて高い境地に到達されていたと思います。太極拳の内容は精微であり、太極拳の使い手として深く理解があるだけでなく、清楚な先生の境地に大きな価値があります。
 鄭曼青先生の生前の弟子として、台湾では徐憶中、柯?華、蘇紹卿、陳紬藝がおり、海外ではMaggi Newman、Robert Smith、Carol Yamasaki、Wolfe Lowenthal等がいますが、皆、劉先生と有意義意な時間を過ごしています。
 先生との推手を通して、彼らは皆、先生に対し高い評価を持っています。ある者は先生を蛇の様に動くと評し、またある者はハンガーに掛かっている上着と推手をしている様だと評します。最も大きな評価は鄭曼青先生の海外の弟子からのもので、彼らは先生の推手の感覚が最も鄭曼青先生に近いと評価しています。
 先生は規律ある穏やかな生活をされており、海外から継続して学生を招いていますが、1987から1988にかけてはオランダとアメリカへ滞在もしました。滞在中の大半は鄭曼青先生の奥様のお供をしていました。その後は、鄭曼青先生の奥様の海外旅行が大変になったので、海外から教えを請う招待があっても一切断るようになりました。

 先生は太極拳に対し深い造詣がありましたが、出版の依頼を固辞し、映像の撮影も断っていました。
ある時弟子たちが、自分たちの学習の為に先生の映像を撮らせて欲しいと頼みましたが、先生は淡々として言われました、「私はまだ進歩の途中にいます、あなた方は私にここで進歩を止めろと言うのですか?」また、ある時はこの様に言われました、「太極拳は内面にあるもので外観を見てもわかりません。外観に頼ることは不必要です。」
 またある時、この話題にふれ先生は言われました、「私は孔子を勉強中だから、著作はしないんだよ。」
 これには深い意味があります。著作は鄭曼青先生等の先覚者が著すもので、それはただ一人で良いと言う事を言われているのです。 甚だしき場合だと、ある時、先生は拳について説明されていましたが途中で説明を止めてしまわれました、先生によると仏陀曰く「物事を深く理解してない者はそれを説いてはならず、清楚に反する。」
 そのため先生は晩年まで自分の功夫はまあまあだと言われ、多くの者は先生のことを真に理解できませんでした。
現在、わずかな講演録と写真を除いては資料が残ってない事を残念に思います。劉先生の太極拳に関する資料は、当時の学生が記憶している先生が日常で述べられたお話やその神々しいお姿だけです。

 劉先生はよく言われました、「太極拳には2つの大事な意義があります、それは生活と仏道との融合です。」
随分前のことですが、鄭曼青先生がアメリカへ滞在されていた頃の有る時、劉先生は鄭曼青先生に手紙を書き仕事が忙しい事を愚痴りました。そうしたら鄭曼青先生からお叱りの返信が来て、そこには「あなたは気沈丹田の功夫を完成させましたか?」と書かれていました。
 この時、先生はやっと太極拳の実戦の場は生活の中にあると悟りました。そしてそれから努力を続けました。
 先生は推手の原理とその練習方法については前に書いたように非常に謙虚にへりくだっていましたが、学生が生活上の問題を先生に相談すると、よく先生は太極拳の原理を用いて回答されました。例えば、彼女の作り方には「粘連貼隨不?頂(強くでは無く、ぴったりと張り付く)」、結婚を成功させる秘訣は「捨己從人(己を捨て、相手に合わせる)」と説明され、皆を笑わせました。

 先生は早くから仏教に触れ、49才の時に帰依しました。仏道の勉強と太極拳の勉強は、先生が退職されてから専念された2つの事です。 先生は座禅をすることと太極拳をすることは手段は違いますが、同じ結果に到達すると考えました。
 両者とも清浄な心を求めます、そして修行の末に到達するのは悟りは同じです。
そのため先生は常に仏教の教えを太極拳の理解に用い、また太極拳の理念を仏教の理解に用いました。
 先生はよく言われました、「看得破,放得下(理解したら手放す)」をリラックスの説明に用い、「隨?不變(縁に従い変わらない事)」を中定の説明に用い、「法?施(仏教を教えること)」を太極拳を伝授することの例えに用いられました。仏教の智慧の言葉は太極拳の拳理の深い部分を理解するのに用いられました。

 先生のお人柄は淡白でしたが、雲がその上に光を隠している様で、今までにその様な人には会ったことがありません。
先生の様な印象の方は太極拳の世界に限らず、どこにも見ることはできませんでした。
 二十数年前、先生は拝師を受け入れ最初の弟子を取りました。その拝師の儀式の中で、先生は道に関する一分間のスピーチを準備しました。その拝師弟子の1人は仏教を学ぶアメリカ人でしたので、聖厳法師(台湾の有名な仏教僧)も参加され、その1分間のスピーチを見て言われました、「台湾にまだこんな人がいたんですね、私は彼みたいな人に会うことを願っていたのです。」そんなわけで、法師は劉先生と早速食事をする約束をしましたが、先生に急用ができてしまい、会見はかないませんでした。聖厳法師はその後も先生の事を忘れませんでした。
 その後多くの年が過ぎ、聖厳法師と劉先生はたった2ヶ月の間をおいて次々とこの世を離れられました。
彼らの遺灰は法鼓山(聖厳法師のお寺)の山中に埋葬され、この様な因縁により、両者はついに面会することができたのです。

 3年前の早朝に、私と江師兄(江火炎先生と思われる)は劉先生のお宅にうかがいました。そこは私達が最後に授業を受けた場所です。先生と私達は先生の最後の心境を分かち合いました。
 先生のおっしゃるところでは、その数日前から夜になっても寝付けず、生命が尽きるということが頭から離れず、不安な気持ちでいたそうです。 しかし忽然と弘一法師(中国の高僧。東京美術学校で黒田清輝に師事し美術の教師をしていたが38才の時に出家する)の臨終の際の書「悲欣交集」がひらめき、この四文字により心が急に朗らかになったそうです。悲は人生の大本にある悲しみや苦しみです。欣はそれだからこそ極楽への往生を想う事が大切であるということです。
 ここにようやく劉先生は、余分なものを一切捨て去り、ついに心願である境地に達したのです。
私達も先生を祝福いたしましょう。


著者:阮偉明
東海大學建築系專任教師
時中學社教練
鄭子太極拳研究會副理事長




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