劉錫亨先生から教えていただいた
太極拳の宝物

(この文書は鄭子太極拳研究會の黄耀輝先生が時中学社ホームページ上に発表された文書を意訳させて頂いたものです。つたない翻訳であることをご了承ください。また誤訳などありましたらご指摘ください。時中学社のページも是非御覧ください)

整理: 黄耀輝

 今はもう劉先生は天に行かれてますが、当時十数年に渡り太極拳を教えていただき、その間は常に新しい発見や心得を話していただきました。これら見聞したことは太極拳を学ぶ皆さんには必ず役に立つことと思います。
これらは容易に聞くことができず、また見ることもできない太極拳の宝で、秘密にされていたものです。
劉先生が天に帰られその宝が失われることは非常に惜しいことです。

 劉先生は太極拳を撮影されることを嫌がられ、ほんのわずかしか残っていません。 毎週日曜日に幸安国民小学校で練習をしていましたが、有る時、生徒がカメラを持ち出し先生を撮影しようとしました。先生は、「ダメです。私のレベルはまだまだ進歩の途中です。あなたが撮影すれば、私の技量がこんなものだったのかと後日思われてしまいます。」と言われました。これは謙遜して言われているのです。

 劉先生の技量は極地まで達しており、国宝級の大師です。卓越した拳理の解釈、拳架,推手,散手,劍に関する教学は素晴らしいものでしたが、残念な事にビデオでは残っていません。私は3回先生に学習用教材としてビデオを取ることを懇願しましたが、1回1回丁寧に断られました。
 「私がいる時は、私と直接接して学ぶのが一番です。討論して解釈して疑問を説明し、それをまた質問し、回答して指導出来ます。ビデオを使って討論したり問題について研究できますか?人は生きています。ビデオは死んでいます。生きている学びをしませんか!」先生の言わんとするところは、1人1人に対して機会をとらえ真剣に学習をしましょうということです。

 ある時、劉先生は鄭曼青先生から渓谷の別荘に来るように何度も言われました。その当時、劉先生は鄭曼青先生の意図がわからず、納得が行かない気持ちでした。仕事が落ち着いてから時期を見てうかがおうと思い答えました、
 「私の食糧局の仕事は現在大変忙しい状況です。抜け出す事は不可能です。別荘は何回も行っているではないですか、なんの御用でしょうか?」
当時、劉先生は大した意味を感じなく、鄭曼青先生はいつもおられ、いつでも好きな時に鄭先生の指導を受けられました。
 それからしばらくして鄭曼青先生はこの世を去られました。真に人生は無情であり、その時になってやっと気付き後悔します。学ぶチャンスは一瞬であり、すぐに去って行きます。
 私は毎週日曜に工業専門学校の練習場で推手の個別指導を受けました。
毎回劉先生から推手を学び、精神を集中して安定させ、一点の気の緩みもありませんでした。
手を丁寧に使い、重心を足に置き、背を立てて、軽妙さとリラックスが要求されます。
更に少しも力を使いません。

 「私からポン、リー、擠、按の推手を学んだとしても、攬雀尾が完成するわけではありません。練習しかありません。私が左に行こうとすると、貴方は譲ろうとしません、行く手を遮ろうとします。私はあなたの変化に従うだけです。」
 これが劉先生に十数年指導いただき説明頂いたことの全てです。この様に劉先生から指導いただいた軽妙でリラックスし霊敏な技は、想像するのは難しいことです。
 拳論には清楚であり、捨已從人(己を捨て人に従う)が必要だと説かれています。往々にして行く手を遮り、抵抗しようとしてします。先生の聴勁が非常に軽微であるのに対し、私はすぐに重くなってしまいます。
 「貴方の手は中に鉄が入っているようですね、霊気が全然感じられません。」この一言が全てを語っています。どうして攬雀尾を完成することなどできるでしょうか。

動而無動是真動(動かいない中の動きが真の動きです)
 劉先生の拳芸の多くの宝物の中でも傑作の一つです。すでに動いてる中には動きは無いと言われています。
 劉先生の解釈なくして、単に字の表面を見ても真の動きの意味はわかりません。文に従っても真義には到達しません。
 動而無動(動かない中の動き):動かない中の動きが重要だと説明しています。この時の動とは体全体の動きです。一部が動くのではなく、全体が一致して動きます。
 相手に感応して動くので自分で動くのではありません。
 真の動の要は、拳論に曰く;無斷續,要輕,要靈,更要貫串完整(途切れること無く、軽妙で、霊敏で、串を貫くように動く)。この反対は、体がバラバラに動くことです。これは揚子江の水がゆっくりと連綿と流れる事と似ています。波を起こさず、痕跡も残さず、一見すると動いて無い様ですが、水は動きの中にあります。
 太極拳の真の動きはこれです。ひとたび触れれば、相手の根が抜かれます。

動作讓為先(動くより譲ることが先です)
 譲るとは、礼儀を尽くして先に譲ることです。
 拳論に曰く;動急則急應,動緩則緩隨(動きが急であれば早く応じ、動きが緩やかであれば緩やかに応じる)。早く応じ、また緩やかに応じる、早く相手を操縦することではありません。心の中は常に礼を尽くし譲る気持ちでいる、これを捨已從人と言います。
 少しの抵抗もあってはならず、抵抗には先を争うとか興奮するという意図があります。
 いかなる動作も礼儀を尽くして譲ることが必要です。先に譲ると貼り付くことができます、貼り付くことができると?(ポン)が出来ます。?(ポン)ができると勁を発することが難しくありません。
 劉先生は字訣を述べられています。
 能處處讓,則處處能黏,可得機先矣。
(譲ることができると、すなわち貼り付くことができ、機の先を取ることが可能となる。)

 動必由湧泉之根(湧泉の根から動く)
 動は腰に従うのでは無く、股関節の動きによるのでもありません。この言葉は根は腰にあるのでも股関節にあるのでも無いことを表します。根は湧泉にあるという事を守らない者は、得てして根は腰にあるという説に陥ります。
 誤解は「主宰」の真実の意義を理解してないところから生じます。ここで主宰というのは、腰を自分で動かしたり、回転したり、揺れたりすることを指してはいません。
腰は受動的です。
 どの様に動くか、主宰の真実の意味に応ずべきです。
拳論に曰く;其根在?,發於腿(根は脚にある、腿から発勁する)。
これは明らかに先に根がある事が必要であり、そして腿にて発勁できると説いています。
腰の動きは必ず湧泉の根と連動します。故に主宰は根に由来し動きます。
また拳論に曰く;?氣流經湧泉入地生根(内気は地に生えた根から湧泉を経て入ってくる)。
 根があって初めて動くことができます。
體用歌に曰く;湧泉無根腰無主,力學垂死終無補(湧泉に根が無ければ腰は主宰でなくなる、力にたよると結局は死に終わる)
 劉先生ははっきりと、根を学ばないと何もならないと言われています。根から来てない動作は結局は、勁が断たれ、折れ曲がり、散乱し、一体な動きができません。
 根は実在のものであり、動きに必須のものであり、地下で育てられ,生えた根から内気が流入します、根は必要としか言いようがありません。

犁田功夫(功夫を耕す)
 鋤で田を耕す時は深く入れる必要があり、勁道もまた適切に耕す必要があり、その後ようやく思いのままに使えるようになり、習熟の境地に到達します。
鋤は先ず大地に入れて動き出します。太極拳も地に根を下ろすのが道理となり、田を耕すことと功夫は一致します。
 そのため、単に足で立つだけでしたらその根は死んでいます。
活きている根は自らリラックスし、柔らかく、沈んでおり、まっすぐに地下に伸びています。
 劉先生は言われました;要栽根,要鬆,要?。(根を養い、リラックスし、沈むことが大切です)
 根を養うには、しっかりと根を移動させることです。根は地で発生し、内勁を上へ反転させ導き、根は移動します。虚実の変化により根は移動するのです。
 この道理を総括して、功夫を耕すと名付けました。

 單式基礎功夫(基本練習の単練)
 この単式の基本練習は劉先生の拳理、拳架の研究の精華です。
 型の中から1つ選び、1週または数週間、単練します。そしてその型が成熟したら再びもう1つの型を選び単練します。
 この様に反復練習を繰り返します。昔のことわざにある様に、少なく行うと得るものが多く、多く行うと迷うということです。
 平行歩:左右弓箭歩。
実の根から虚の根へ移動させます、その時双重になってはいけません。地に沈み根をはらなければなりません、まっすぐに地下に根を伸ばすが如くにします。
 最も犯しやすい間違えは、虚根と実根の移転を所定の位置へ来る前にしてしまうことです、1つの動作が完全に終わってないのに急いて変換してしまいます。双重の病を犯してしまいます。この病は膝の関節を磨損させてしまい、運動障害の弊害を産みます。
 ポン,リー,擠,按の型を練習するのもいいでしょう。
また、左右の雲手,彎弓射虎,斜飛式,倒?猴等も良いでしょう。
 型の全架式が単練に合います。型をひと通りするのに匹敵します。
 民国74,75年に劉先生はアメリカと欧州に招待され太極拳を教えに行きました。
その時にもっぱら行ったのがこの基本練習の単練です。
 龍虎拳
 これは劉先生が創作されたもう1つの練習法です。
 型は揚子江の水が絶え間なく連綿と流れる如くに行います。1手1手を連綿と反復して練習します。
 まずポン,リー,擠,按の4つの基本動作を攬雀尾で行います。そして足を替えて反対の攬雀尾を行います。この時、根は後ろ足の根に固定します。足は平行に置き、左右弓箭?の姿勢で上半身で攬雀尾を行い、ひと通りおこなったら足を替え再度基本の攬雀尾を行います。この左右を入れ替える姿が龍のとぐろを巻く姿に似ており、また擠と按が山頂にどっしりと構える虎の様であることから龍虎拳と名づけました。

2010.2.5



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